「宴会への招待」  04.05.09
              ルカ14:15〜24

 神の国に迎え入れられ、永遠の命を与えられ、神さまのもとで食卓に
着く。最終的にはその食卓に着くことができる…。私たちには、そんな
朽ちない希望があります。

 主イエスは、神の国を「盛大な宴会」として語られます。主がおっしゃる
のは、人が催すことのできない「神が用意してくださる宴会」です。「神が
共にあり、もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」、「命の水の
泉から価なしに飲ませよう」(ヨハネ黙示録21:3〜7)といわれる所での
宴会です。
 独り子主イエスを十字架につけてでも、私たちを招きたいと、神さまが
願われた宴会です。そこは、神さまのご愛で満ち、恵みと慈しみが満ちた
食卓です。私たちの想像を越える宴会ですから、私たちは深い期待をもって、
ワクワクしながら待ち望むべき宴会です。

 しかし、その宴会を拒む人のことを主は話されました(18〜20節)。
 どの人も、とても大事な用ができたのです。この世の宴会であれば、
断るのに十分な理由です。しかし、それをおいてでも、神さまの宴会への
招きに答えて欲しいと主は願われます。人が最優先すべきだと考えていること
より、ずっと大きな、永遠の幸いがあることを主はよくご存知だからです。

 招待を拒む三人は、神さまを拒み、自分で事を進めようとしましたが、
「必要を加えて与えてくださる神さまを求める」(ルカ12:31〜32)べき時でした。
 「無理にでも連れてきなさい」と言われます。それは、神の国がかかっている
からです。永遠の命がかかっているからです。神の国の救いは、永遠の滅び
からの救いですから、「ご自由に」といったのんびりしたものではありません。
 沈没する船に子供が残って遊んでいたら、親は無理にでも救命船に引っ張って
いくのです。
 しかし、私たちは、ただ力任せに連れてくるのではありません。
 主イエスも力任せの歩みをされたのではありません。
 人の救いのために、仕え、心をくだき、与えられている知恵と力を
用いたいのです。